Director’s NOTE:撮影回顧録(Vol.8〜9 )

「Vol.9」

二日目から外に出た。
家で見つけた写真を手に、女は街を彷徨い始める。

練馬周辺から渋谷へと場所を変えながら撮影していく。
基本的には、景色と人物をどうフレーム内で関係させるか、という事が大きなテーマになった。
私は、フレームという物は静止した物だという感覚を持っている。

それは私のフレームが景色を捉える為にあるからかもしれない。

その静止したフレームに、映画では動く物/人物や車などいろいろなものがあるが、
そういったものが侵入することにより、微妙にバランスが崩れる。
その絶妙なアンバランスさを持った画が美しいのではないかと思う。
もちろんカメラが動くこともあるが、それでも考え方としては変わらない。
何者かが侵入し、あるべきバランスが崩れる瞬間が最も映画が美しい瞬間だ。
そのためのアイデアは、私たち二人には存分にあったのだと思う。

余談だが、それは音にも可能で、特に車や電車の様な音を立てて動くものは、時としてフレームを脅かす。
そもそも音とフレームの関係というのは特別で、フレーム外の音もフレーム内の音も存在するのが映画だ。
フレーム外の映像というのは基本的にはあり得ない。
これらの音はフレームの内と外を行き来しながら、音のフレームの曖昧さを主張し始める。

当然実際のフレームが崩れる事など無いが、その主張は常に何かの崩壊の危うさを感じさせる。
音の使い方によってまるで印象が変わってしまうので、やり方次第で、ということになるが。
様々な場所で撮影したが、そんな事を考え方の軸に置きながら、踊る様に芝居をする彼女を撮るのは素晴らしい体験だった。(かなり動きを抑え込んではいるが)

通常の演技では感情と繋げ辛い様な動きも、彼女は当たり前に捉えて表現しようとする。
彼女は演技ではないところから演技を考えていて、それはとても新鮮でもあったし、演技からのアプローチに疑問を持っていた私にはとても純粋なものの様に見えた。

続く