寄稿コラム / 大塚姿子さん(音楽・サウンドアート研究者)
「映画における新たな音の地平」
この映画全体に漂う音、それは常に存在しているが私たちが意識していない音だ。
東京という都市が生きていることの証左でもあるその環境音は、現実であるにもかかわらず、非現実的な世界との境界を曖昧にするために作用する。
それは何故なのか。ここで使われている環境音は入念な計算によって、人間が特に注意を払う音(例えば救急車のサイレンなど)と同列の重みを持たされているのだ。普段は注意を払っていない音に私たちは意味を見いだしてしまう。だからそこに新たな次元が生まれるのだ。
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哲学的で内的な思考は言葉として発される。言葉は音となることではじめて、外界や他者との繋がりを持つための媒体となり得るのかもしれない。しかしその対話で果たして真理を導き出そうとしているのか、それは謎である。
言葉、足音、動作音などの人間が発する音は、その人物の身体性や心情を表すものである。物理的であり、かつ心理的でもあるその音は、本来は彼らを取り巻く日常の音、環境音と対比されるものであるが、この映画においては同列、あるいは近似したものに感じられるだろう。これもまた、この映画に仕掛けられたマジックなのだ。
このような音の扱いが、人間の潜在意識の深いところに影響を及ぼしているであろうあらゆる種類の音を思い起こさせ、気持ちを静かに揺さぶり、この作品独特の不思議な感覚というものに導いているのではないだろうか。こんなにも音を違う次元に引き上げた映画がかつてあっただろうか。
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人間は視覚、聴覚をはじめとした五感で様々な要素から多層的に成り立つ外的世界を感知しているが、それは登場人物の内的世界と如何に繋がっているのだろうか、そんなことに思いを巡らせる。つまるところ、そこには確固とした世界が存在するのではなく、宙吊りになったような、どのようにも変容できるものが世界なのではないだろうか。
そんな思考に導かれながら、陰影の美しい映像、現実の音から作り上げられた音、惹きつけられる俳優の身体の動き、見えない心の動き、あらゆる感覚を幾重にも重ねたこの作品の世界とその力に、あらためて魅了されている自分を発見している。