コメント

Yui Onoderaさん
(サウンドプロデューサー)

音楽家と同等、それ以上の耳を持っている監督はなかなかいない。
言葉と同等、それ以上に音が真摯かつ雄弁に語る映画もそう多くはない。
あえてラングとパロールの間を行き交うフォーリーが映画音楽とは何なのかを問いかけてくるようだ。

仙頭 武則さん
(映画プロデューサー)

冷気を孕む強靭で圧倒的なショットは死都を闇に晒し、深淵を浮かび上がらせる。

TVはもはや何も映してはくれない。記憶と情報の拠り所は紙の写真だけ。

ウイルスのように浮遊して棲息して行くしか、人間たちにもう残された道はないのだ。

北尾和弥はRoger Waters の『Amused To Death』のその後の世界を31年の時を経て描いてみせた。

戦慄せよ。

佐々木 誠さん
(映像ディレクター/映画監督)

アラン・ロブ=グリエを彷彿させる記憶と存在の関係をめぐる哲学的な問答、
陰影を美しく計算されつくした映像が全編を支配し、これまでに見たことがない東京が浮かび上がる。
(北尾監督の師匠である)帯谷有理監督から受け継いだと思われる音の設計へのこだわりがより立体的に物語を構築。
この不穏な137分は、劇場で観ることで内なる深淵と対峙する贅沢な体験になるだろう。

太田 光海さん
(映画監督/文化人類学者)

人生のこと、社会のこと、宇宙のこと、あらゆるものの隙間に存在する感覚、
背反しつつ共存している要素たちが、孵化する直前のサナギのような手触りで頭をよぎっていく。
それは決して未熟を意味しない。
この作品の裏にあるのは強靭な哲学と意志であり、禅的とも言える諦念だ。
ストイックな脚本、ミニマルな役者の動き、表情、言葉、
一連の連動と間の強弱がそれらを危ういバランスで成立させている。
しかし、そんなこじつけなど無用なくらい、圧倒的に画が美しい。
インダストリアルな東京の無機質感と、登場人物たちのニヒルな佇まいが
見事に合致した緊張感あふれるシネマトグラフィが、
「画面に見を委ねる」というプリミティブな映画的欲望をたっぷり満たしてくれる。
本当はみんな知っているはずだ。
良い作品を撮るために、金なんかいらないということを。

侘美 秀俊さん
(作曲家)

静謐すぎる強度。 空気音、固体音が、構図と共に いちいち美しい。台詞も、休符も。 たった一つ、持続する楽音の手触りでさえ。 倍速視聴の時代で失われた、耳の解像度を取り戻そう。

大塚 姿子さん
(音楽・サウンドアート研究者)

常に波のように存在している音。 それはこの映画を装飾しているのでも、登場人物の心情を映し出しているのでもない、東京の音風景。 普段意識されていないその音は、都市風景を切り取ったような映像と共に異常なほどの存在感を示している。
哲学的で内的な思考は言葉として発される。 言葉は音となることではじめて、外界や他者との繋がりを持つための媒体となり得るのかもしれない。
あらゆる感覚を幾重にも重ねたこの作品の世界に足を踏み入れると、鈍く痛々しい現実と、ふと訪れる非現実の境界が曖昧になるような、不思議な感覚の渦の中に巻き込まれていくことになるだろう。

横山隆平さん
(写真家)

意味を持つと途端に失われてしまうような脆くも美しい光によって支えられた映像画、他者との交錯、対話──。眼を凝らしても言葉を尽くしても捉えられぬ〝何か〟を表出させようとする試みへと向かう作品である。

福島 拓哉さん
(映画監督)

ゴーストの女が東京を彷徨い、地縛霊たちと対話する。
きっとかつて人間だった彼らは、まだ微かに残っている魂の灯として、東京の闇に存在している。
という映画ではないかもしれない。
でも、僕にはそう見えたので、それでいい。

東京という街の、呼吸音と、静かな鼓動と、切ない叫びが響いてくる。
という映画ではないかもしれない。 で
も、僕にはそう聞こえたので、それでいい。

この映画は自由だ。
途轍もなく不自然で不自由な挙動や台詞の連続が生み出すグルーブが、麻薬のような自由さを与えてくれる。
そして各自が思考の波に溺れられるよう、計算し尽くされている。

きっと中毒者が出る。

睡蓮みどりさん
(文筆家・俳優)

暗闇に浮かぶ彼女を見つめながら、
何か言いかけたいのだけど、
言葉が見つからずに息を飲み込む。

「何か」に心奪われて
まるで空っぽになってしまったような彼女はとても身軽で、踊るように彷徨いながら、どこかへ向かって行ってしまう。

少しだけ胸がぎゅっと痛む。
そしてまた、彼女の姿を見つけて安堵する。
暗闇の中で光は暴力的であり、静けさの中でささやきは騒音として耳を啄む。

私は映画という暗闇にすっぽり包まれながら、決して触れることのできないものへと手を伸ばそうとする。 だが、簡単にそうはさせてくれない。

逆に映画の暗闇が私を抱きすくめて、私は一層孤独になる。 けれど決して私を一人にはしてくれない。 この映画は、私を放っておいてはくれないのだ。

帯谷有理さん
(映像作家/音楽家)

独りきりで、時間を意識せずにずっと眺めることができるプラネタリウムがあればいいのに。
MCなし。星や星座の解説なし。
余計な効果音もBGMもなし。
ただ静かに、地上の夜の音だけを聞きながら、投影された星空だけを眺めていられる、天文キッズを寄せつけない、大人の隔絶のためのプラネタリウムがあればいいのに。

…これはまさにそんな映画だ。
尺が進むに従い、精確にクリップされた都市の表層が積み重なるその間から、寄せては返す波のように計測できない時間のヒダが僕を包み、やがて置き去りにしてゆく。
あゝこの恍惚に感謝。

賀々贒三さん
(映画監督)

座標なき空間、交感なき対話、「不在」を巡る巡礼の涯てに、ただそこに在る身体へと還る。

そういう映画。

たぶん。

蔭山 周さん
(映画監督)

この映画を思い出す時、
この映画を観ていた自分も思い出す。
スクリーンの前に座り、映画と頭の中が溶け合った世界を漂っていた自分を。
あの不思議な体験が忘れられない。

タモト清嵐さん
(俳優)

この映画に登場する「危うさ」は成分は違えどきっと誰しもが抱えているもので
時折自分と重なりハッとするような瞬間があった。
画面で見るより、空間で感じる映画であるからぜひ映画館で観ていただきたい。
自分の影は、踏みつけてる足から伸びてるんだよなぁ。

万城目 純さん
(映像作家/身体表現/アーチスト)

撮影はコロナ禍の前に撮影されたようだが、
キャメラが捉えたその光景はわたしたちが共通に経験した、あの分断された外界と自身の存在の抗えない孤立感であった。

ダンサーであるヒロインの囁き声にも似た仕草は、制御されたミニマムな音は、さらにその不可視なものを浮遊させる。

私たちの身体という乗り物は、この間に目的地に着くための手段ではなく、それを乗りこなす技術でさえもはや無効なのかもしれない。

ヒロインはやがて数人の同行者と出会うだろうが、それは気軽なアプリでタクシーの配車を待つようなものではなく、通りすがりの風景の中でモノクロ写真の行方を探る旅になるのだろう。

途切れ途切れの言葉は、それが全て解消される夜明けを待ち、ありふれた日常に戻るのだが。

私たちのホームとは?そして、どこに向かうのか?南方に希望の逃避行を目指した、かの芸術家を思い起こしながら、私たちは2時間17分にも及ぶ、この魂の道のりの重さを何もない空間で改めて知ることになるのだろう。

赤井 宏次さん
(映像ディレクター)

すべてのカットに重厚感があり、どんどんと世界に引き込まれる強い没入感を感じ、現実と非現実の間で自分自身に自問自答している錯覚になりました。 まったく新しい映像体験ができる素晴らしい作品です。 独自の視点と感性で紡ぐ映像美を創造する北尾監督の今後の作品にも注目です。

榎本 桜さん
(俳優/映画プロデューサー/映画監督)

登場人物の一挙一動が「目で聞いて、耳で見る」そんな事を感じる映画だと思いました。
監督の北尾さんとは公私共に良くお誘いいただいてるのですが…彼の秘めた狂気が映画にも反映されてました…彼の心の底を覗けるチャンスをお見逃しなく。

柴田 千紘さん
(女優)

理論的に完全な共有はできないと知りながら共感を欲して、自由を求めるくせに縛られないと生き方もわからなくなる 人間の矛盾と弱さに、まったくうるせーなー、と思う。
そして私もその雑音を消しながら生きてる1人なんだと思う。
偽物の記憶の箱の中に入った生き物みたいな色が印象的で、最初はSFかファンタジーか、主人公がエイリアンなのかと思った。
ここが現実の色よりつまらないのか、もしかしたら美しいのか、それも自由だ。

木ノ脇 道元さん
(フルート奏者)

居なくなった男を探す女を軸に、人生のさまざまな時点で傷ついて停滞している人々との哲学的ダイアローグにしてリアリティーから剥がれ落ちるような感覚の寓話と見た。
4編の詩のような。
映画(=写真)の中の写真という二重構造は、女と対話する人々を暗示するようで興味深い。

土居 大記さん
(美術家)

逆光写真のようなムービーだと感じた。
空気や質感のような言葉を寄せ付けない要素が印象的だった。
意味ありげな言葉が出てくるがきっとそれらに意味はない。
言葉より映像、映像より空気というように作品の魅せ場へ誘導していく登場人物たちが愉快。